弱かった私、強くなった私?
2014年11月02日
私は昔、「自分は弱い人間だ」と思って居ました。
すぐに落ち込むし、すぐに泣くし、なにもできないし…
自分に対するコンプレックスがハンパなくて
負のスパイラルから抜け出せないことがしばしば
そのときは、本当に辛かった。
そんな自分は「弱い」と思っていたことは、仕方がないのかな、と思います。
そして最近、私を長く知ってくださる方から
「強くなったなぁ~」
と、しばしば言っていただくようになりました。
先日も、「左目が見えなくなって3日程落ち込んだんですけど、今の自分に何ができて何ができないのか、すぐに知りたくて外へ出てみたんですよぉ~」という話をしていたら
「おいおい、それってそんなにあっさり話す内容じゃないだろう(汗
「1ヶ月くらい落ち込んで、ちょっと外へ出てみないか?と言われて出てみるくらいが丁度いいのに」
「お前強くなったなぁ」
と、言われました。
「強くなった」と言われて、悪い気はしないし、実際自分でも強くなった、と思ってはいたのですが、果たして本当に「強くなった」のだろうか?という疑問がわいてきました。
そして、昔の私は「弱かった」のだろうか?とも考えるようになりました。
人の性質を、強弱で表すことは、適切なのでしょうか?
ひょっとすると、違うかもしれないなぁ~と思うのです。
私は今よりもっと見えていたときいっぱい泣いていたけど、今回左目が見えなくなったときは泣きませんでした。
別に我慢していたわけでもなく、ただただ泣く理由がみつからなかった。
唯一涙がにじんだ師匠からのメールのときは、弱い自分が出た、のではなく、単に「嬉しかった」のだと思います。
今、51万部のベストセラーになっている「嫌われる勇気」という本を、私はこの半年愛読しています。
その中には、「感情は自分の目的を果たすための手段である。」とされています。
怒鳴る、という目的を達成するために、怒りという感情を出してくる、そんな感じ。
そうやって解釈すると、目が見えなくなったことを認めたくない、という目的を果たすために、悲しみや怒りなどの感情を、昔の私は使っていたのだな、と思いました。
それがわかると、じゃあ、今の目的は何で、どういう手段を用いてそれを果たすべきか?と考えられるようになり、そしたら、「泣く」とか「人やものに当たる」とか、そういうものではなく、今の自分の現状を、丁寧に言葉にしていく、という作業をすることで、自分自身の心の整理にもなり、そして、自分の今の心を相手にも伝えることができたのでした。
自分を理解して、それを相手に伝えることができたら、涙というツールが今の私には必要なかった。
それが結果的に周りから見ると「強くなった」と表現されただけなんだな、と思ったのでした。
弱かった私は、自分を表現するツールがなかっただけ。
強くなった私は、自分を表現し伝えるツールを見つけただけ。
それだけの違いなのだと思います。
決して、感情を表に出すことを否定しているのではありません。
素直に喜び、悲しみ、ときには怒り
それは人間が人間らしく生きるために不可欠だし、大切なものだと思います。
東洋医学でも「七情」という感情を重視します。
ただ、上手に使えるようになったら、もっともっと豊かな心で毎日を過ごすことができるんじゃないかな、と思うのです。
すぐに落ち込むし、すぐに泣くし、なにもできないし…
自分に対するコンプレックスがハンパなくて
負のスパイラルから抜け出せないことがしばしば
そのときは、本当に辛かった。
そんな自分は「弱い」と思っていたことは、仕方がないのかな、と思います。
そして最近、私を長く知ってくださる方から
「強くなったなぁ~」
と、しばしば言っていただくようになりました。
先日も、「左目が見えなくなって3日程落ち込んだんですけど、今の自分に何ができて何ができないのか、すぐに知りたくて外へ出てみたんですよぉ~」という話をしていたら
「おいおい、それってそんなにあっさり話す内容じゃないだろう(汗
「1ヶ月くらい落ち込んで、ちょっと外へ出てみないか?と言われて出てみるくらいが丁度いいのに」
「お前強くなったなぁ」
と、言われました。
「強くなった」と言われて、悪い気はしないし、実際自分でも強くなった、と思ってはいたのですが、果たして本当に「強くなった」のだろうか?という疑問がわいてきました。
そして、昔の私は「弱かった」のだろうか?とも考えるようになりました。
人の性質を、強弱で表すことは、適切なのでしょうか?
ひょっとすると、違うかもしれないなぁ~と思うのです。
私は今よりもっと見えていたときいっぱい泣いていたけど、今回左目が見えなくなったときは泣きませんでした。
別に我慢していたわけでもなく、ただただ泣く理由がみつからなかった。
唯一涙がにじんだ師匠からのメールのときは、弱い自分が出た、のではなく、単に「嬉しかった」のだと思います。
今、51万部のベストセラーになっている「嫌われる勇気」という本を、私はこの半年愛読しています。
その中には、「感情は自分の目的を果たすための手段である。」とされています。
怒鳴る、という目的を達成するために、怒りという感情を出してくる、そんな感じ。
そうやって解釈すると、目が見えなくなったことを認めたくない、という目的を果たすために、悲しみや怒りなどの感情を、昔の私は使っていたのだな、と思いました。
それがわかると、じゃあ、今の目的は何で、どういう手段を用いてそれを果たすべきか?と考えられるようになり、そしたら、「泣く」とか「人やものに当たる」とか、そういうものではなく、今の自分の現状を、丁寧に言葉にしていく、という作業をすることで、自分自身の心の整理にもなり、そして、自分の今の心を相手にも伝えることができたのでした。
自分を理解して、それを相手に伝えることができたら、涙というツールが今の私には必要なかった。
それが結果的に周りから見ると「強くなった」と表現されただけなんだな、と思ったのでした。
弱かった私は、自分を表現するツールがなかっただけ。
強くなった私は、自分を表現し伝えるツールを見つけただけ。
それだけの違いなのだと思います。
決して、感情を表に出すことを否定しているのではありません。
素直に喜び、悲しみ、ときには怒り
それは人間が人間らしく生きるために不可欠だし、大切なものだと思います。
東洋医学でも「七情」という感情を重視します。
ただ、上手に使えるようになったら、もっともっと豊かな心で毎日を過ごすことができるんじゃないかな、と思うのです。
滋賀県立盲学校同窓会役員会に出席してきました
視覚障害者がパソコン操作で困ること
ラッキーカラーは似合う色
ケーキとクレヨンと風船といろいろ
Zoom操作と格闘した1年間
同窓会役員会へ出席してきました
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Posted by とらや at 09:28│Comments(0)
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